中野のキーマン100人に会う

【中野のキーマン100人に会う:その1】大月浩司郎(フジヤカメラグループ会長)努力なき発展が育んだ「中野らしさ」。次代に必要な努力の形とは?[前編]

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中野サンモール北口駅前広場から入って左側5軒目に僅か7坪のお店からスタートした父上創業のフジヤカメラ。2代目の大月浩司郎さんは中古カメラで中野をメジャーにした中野を動かすキーパーソンの一人である。昭和21(1946年)生まれには見えない若々しい行動家である大月さん。個人店が大型量販店と勝負をしても叶うわけがない。そこで取り扱いの少ない中古カメラに目をつけると、口コミで全国からカメラマニアが中野に集結。現在のような繁盛店への道の第一歩を記した。当時は地元の地域活動等には目を向ける暇もないほどに忙しく働いた結果、今では中野の顔ともいえるフジヤカメラへと父上から引き継いだカメラ店を発展させた人物である。

本インタビュー企画の1人目として、戦後から現在に至るまで、中野で生まれ、中野で暮らし、中野商いをしてきた大月さんに話を伺った。

IMGP3148市川  JR中野駅周辺で人に合うと必ず大月さんのお名前を聞きます。とても有名人でいらっしゃる。そんな大月さんから見て、昔の中野の話で、思い出として残っていることは何かありますか?

大月 僕は戦後生まれ一期生で、昭和21年生まれです。幼稚園、小学校、中学校は中野でした。小学校に入ったのはまだ2部授業をやっていた頃。まだ混乱している時で、線路沿いには戦災で焼けたところが残っていました。ただ、毎年なにかしら家の中に物が増えて、だんだん生活がよくなりましたよね。私の家は商店でしたが、敷地が7坪しかなかった。その2階で家族と住み込みの店員さん8人が寝起きしていました。

市川 その頃の中野の街の様子はどうでしたか?

大月 中野北口美観商店街(現在の中野サンモール商店街)は賑やかな場所でした。人通りもあって都内有数の商店街でしたね。そういうところで育ったせいでしょうね、小学校5年の時は勉強ができて優秀だったんですが、落ち着きがなくてね。そこをピークに後は真っ逆さまですよ。環境が悪かったですね(笑)

市川 いやいや、中野ではその後、中学生になってからの大月さんが有名なんですよ(笑)

大月 中野の中学校の先生方はかなり熱心で、生徒会活動もちゃんとやりなさいというので、各クラスから立候補が出て、選挙演説なんかもやって、私も女子生徒からの人気があって受かっちゃったりして(笑)

皆、しらけた風もなく、勉強する人もスポーツする人も一生懸命でした。今の中学生とは違って元気いっぱいで、子供らしい子供だったのですかね。当時は自然と頑張ったり、競争していく機運が今よりあったんじゃないですかね。優秀な人は本当に勉強一生懸命でした。今は、親も学校も世の中も過保護過ぎて、子供が世の中出てから苦労しているんじゃないですかね。

大月さんの原点である子供時代、想像通りの成績優秀な小学生であり、その後も仲間から人望を集めた中学生時代の話に花が咲いた。中野区立第九中学校(現在の中野中学校)当時の思い出話は尽きない。生徒からの信頼の厚かった大月さんが同級生から推薦を受けて生徒会長選挙に当選をしたことは、知らずのうちにフジヤカメラ二代目社長になる布石だったとも感じられた。IMGP2934

 市川 その当時から、60~70年を経て中野の街が色々変わっていますね。その中でも、これが重要な転換点だったと感じられたのはどういったことでしょう?

大月 中野は終戦直後に闇市ができて大変賑いました。それが昭和30年後半から40年代は、高いものを買うのは新宿で、中野は最寄り品を買うというような感じで、一時期に商店街は衰退しました。変わったのは、中野ブロードウェイや中野サンプラザができたことです。外からわざわざ中野に来る人が少しずつ増えました。特にサブカルチャー系のお店が出てきて、それが幸いしたと思いますね。その道の好きな人が全国からやって来て、商店街としての特色ができたと思います。

市川 今日の取材でカメラを担当している杉本さんは歌舞伎町のコマ劇場の前の広場で「Re:animation(リアニメーション)」というダンス音楽とアニメ音楽のコラボレーションイベントを2年間展開していて、コマ劇場の建て替え計画が持ち上がった時に、縁があって中野にやってきました。そのイベントが中野には中野ブロードウェイの所謂オタク文化と上手く繋がって、中野に根付いた。ちょっとしたキッカケから文化として育まれたわけです。これから中野は常にこういう若い人たちを通じて、常に変化をしながら新しいものが出来ていく、そういうような気が私はしています。

大月 他所から中野を視察にくる行政や商業の関係者は、僕らに比べると何倍も努力しています。反面、サンモール商店街はさしたる努力もしないで、お客さんはどんどん外から来てくれています。商店街や行政が頑張って方向性を見つけるのではなく、時代の変化と、それに合わせて努力している個人とが偶然が重なり合って、それを良い方向に引っ張っていく努力がそれなりにあって、今の流れになっている。人工的にこの流れを作ろうと思ったらできないですよね(笑)

市川 この先の中野はどうなると思いますか?

大月 5年後も10年後も中野はこのまま右肩上がりかというと、私は悲観的です。「僕らがやらなくても区がやってくれるよ」とか、そういう雰囲気が確かにあります。その癖に「変なもの作ってくれちゃ困るよ」と言う。反対はしますけど、じゃあ自分たちでするのかっていうと、なかなかこれは手に負えないですよね(笑)

市川 その手に負えないような計画の中に、区役所と中野サンプラザの一体整備なんかも有るわけですよね。膨大な施設が駅前に誕生することになります。地元商店街として、今後の行政の計画に望むことがあればお聞かせいただきたいのですが。

大月 僕らは無関心で努力しなくてもどんどん自分たちの居るところが良くなってくるっていうのを何年も経験してきました。今の60歳以上の方はこれからも何とかなると思っています。でも、今の30代~40代の方は違う。日本の先々にあまり期待を持っていないですよね。諦めとか、しらけムードもある。

でも、自分たちが何とかしたいという気持ちはあるのだと思います。ただ、何をやればいのか、今どうなっているのかを知らなかったり、そもそも情報を取りに行っていない。だから、区の情報はどこで得られるのかという潜在的な要望はあると思います。小さいお子様がいるお母さんは子供の遊び場や保育園に興味があるでしょう。安心して住める街が欲しいとか、もっと洒落たものが買えることを望んでいる人もいるかもしれない。

情報提供する側と受け取る側の双方に努力が必要です。市川さんが今回のような企画で色々と発信して、問題もどんどん投げかけて、行政や中野区が勝手に中野を良くしていくわけじゃないよと伝えるのが大事だと思いますね。

昭和40年代、中野ブロードウエイと中野サンプラザの誕生が中野の名を全国的に広めた大きな要因である。ブロードウエイから派生したサブカルチャー文化の誕生や、中野サンプラザ大ホールから発信された全国放映版コンサートなど、中野から発信された文化そのものにしっかり目を向ける。若者がクリエーターになって誕生進化する中野の文化に期待を寄せる一人であり、それら育てるためには力を惜しまない人なのであろう。IMGP2734

[後編]に続きます。

関連リンク
・フジヤカメラ店 http://www.fujiya-camera.co.jp/

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