私の父は日本橋浜町で大正13年に生を受けたちゃきちゃきの江戸っ子でした。浜町と言えば隅田川のすぐ東側に位置していますから、「日本橋浜町で生を受け隅田川で産湯を浸かった生まれも育ちもちゃきちゃきの江戸っ子です!」と言ったところでしょうか。昭和15年旧制中学校3年の時に祖父が病に倒れ還らぬ人となります。同時に祖父が営んでいたふとん店(東京西川ふとん店第三工場)が火災に遭い丸裸になってしまいます。父を失い業績の良かったお店を失い失意の念に包まれる中、父は中野区囲町一番地に住まいを構える伯父(祖母の弟)を頼りに中野駅北口に新たな人生の一歩を記します。伯父と同じく囲町1番地に借家を借りた生活が始まったのが昭和16年、奇しくも大東亜戦争開戦の年でありました。また、借家の大家さんが祖母の里にあたる滋賀県出身だったことで日本橋浜町から中野に引っ越して来たよそ者を暖かく見守ってくださったようです。昔から中野にはよそから来た人を暖かく迎え入れる山の手ダウンタウンとしての素地があったのかもしれません。
さて、母と妹を抱えた母子家庭にあって、祖母はふとん店で身につけたふとんの綿入れなどで内職を始め僅か乍らも収入を得て生計を立てることになったようです。また、父は旧制中学を卒業して清水建設の子会社勤務となりサラリーマン生活をスタートさせます。ちなみにこの時の背広は旧制中学(昭和第一商業)時代の制服に工夫を加えて仕立て上げた話を父から良く聞かされましたから本当にお金には苦労したようです。ところがここで感じた給与格差が父の人生の転換期になるとは当時想像もつかなったとは後日談になります。給与格差を感じ取った父は大学進学の相談を祖母にかけることになります。学費のない市川家。そこで父はそろばん1級の腕前を頼りにそろばん塾を昭和22年に開塾します。開塾当初5人でスタートしたそろばん塾ですが戦後ベビーブームの波が押し寄せ900人の生徒が通学する塾へと飛躍発展します。生計の糧を得た父ですが、そろばん塾の生徒さんの紹介で母と見合いをします。互いに意気投合しゴールイン。昭和30年私がこの世に生を受けることになります。
さて、結婚と同時にそろばん塾の仲間から誘いがあったのが税理士国家試験受験の話です。自分の教え子にそろばん塾を任せてもっぱら卒業した中央大学の図書室に通い税理士国家試験の勉強に勤しみます。3年後の昭和33年12月見事税理士国家試験合格。同時に市川会計事務所開設。現在の新都心税理士法人にその精神は引き継がれます。その翌年の昭和34年皇太子殿下ご成婚の年は統一地方選挙の年でもありました。税理士国家試験合格後、なぜか父は区議会議員選挙への出馬の意向を固めます。どうやら現在の中野サンプラザ中野区役所一帯の警察大学校用地解放の跡地利用が争点であったようです。商業娯楽施設を計画し中野の商業活性化を唱える立候補予定者に対し、そろばん塾を通じて青少年の広場や館の不足を痛感していた父は「子どもに広場を青年に夢を!」をキャッチフレーズにして中野区議会に挑戦、街の顔役も知り合いは居ない中、そろばん塾の生徒さんの父兄(保護者)を頼りに無我夢中で戦った選挙に見事当選の金的を得ます。ここから市川家と区政の関わりが始まりです。ちなみに初戦の選挙事務所は現在の中野北口白線通り商店会中野通り側入り口。中野通りに面しているミスタードーナツ店の真ん前にあった紙やさん(福島屋さん)をお借りして構えました。間口一軒半程度のお店だった記憶が私の中に蘇ってきます。
父の命日に当たる今日。父が中野の地に第一歩を記した当時の話です。常に笑顔満面で誰からも親しまれた父には到底及びません。また政治といった海千山千の中にあって笑顔が似合い人様の面倒を見て惜しまなかった父の仏前に合掌!