平成3年、放射部に当たる光が丘〜練馬間がまず開通した都営地下鉄大江戸線(12号線)今では、練馬から更に新宿、新宿から環状線になって6の字運転をする東京の大動脈として大活躍の路線です。ところでこの大江戸線ですが、そもそも昭和47年の「東京都都市計画高速鉄道網図」に練馬区高松町駅(計画駅)から練馬駅、さらには新宿駅を経由して都心部を環状線として通過、新宿駅に戻る6の字路線が計画されていたようです。ところが、昭和60年の「東京圏高速鉄道網図」によれば、大泉学園町駅(計画駅)から光が丘駅、そして練馬駅から東中野駅を経由して新宿駅、そして環状部をぐるり廻る6の字路線に変更になります。
更に、これが平成12年「東京圏鉄道網図」になりますと、計画路線の最終形として、練馬駅から新江古田駅、落合南長崎駅、中井駅、東中野駅、中野坂上駅を通過し、西新宿5丁目(清水橋)駅を経由して都庁前駅から新宿駅に入ることに。なんと、平成12年は中野区内に予定されていた駅が東中野駅一駅から新江古田駅、中野坂上駅が加わり三駅になった中野区三駅誕生の記念すべき年になったと言っても過言ではないのです。当時の担当が苦心した結果、様々な経緯に基づいて計画路線変更のあった都営地下鉄大江戸線ですが、ならばいっそうのこと、中野通りの下を通って中野駅に入る路線計画があったらば中野区内懸案の南北交通問題解消に大きく寄与したことだけは間違いありませんね。
しかし、現在走る私バス(京王帝都バス、関東バス)路線が生かされなくなってしまうことにもなりかねません。やはり大江戸線は山手通り大震度地下利用で正解だったのです。平成12年、いかにして「東京圏鉄道網図」において路線計画変更に至ったのか?まさに地下鉄大江戸線誕生秘話物語の1つです。