持続可能な社会づくりが求められている現在、集中・集積による機能の相対的な高度化を目指す都市づくりにおいて、自動車交通を前提とした都市の将来は今後無いと思います。複線鉄道の場合、幅僅か10メートル強の敷地に1時間あたり双方向合計で60回程度の運転が可能で、数万人の輸送が正確・迅速・安全にできます。このような超高効率な都市装置は鉄道をおいて他にないのです。
しかも、鉄道はもはや、単に人やモノを運ぶだけの装置ではなく、情報・知識・文化・産業を、駅を中心とした地域にもたらす役割を果たしていると言っても過言ではありません。現に東京の場合、山手線のターミナル駅から放射状に延びるJR及び私鉄の沿線はそれぞれ沿線という括りで地域の特性を捕らえることが出来るほどになっています。
人の政策創造能力が「コミュニケーション」「ネットワーク」「コーディネート」に由来するのであるとするなら、鉄道もまた、都市づくりにおいて、これら3つの機能を有しているのです。したがって、これまでのような「需要対応型」ではなく、「政策誘導型」の都市づくりを目指すならば、鉄道こそがその主要な担い手であるとも言えましょう。
中野のまちは、明治22(1889)年の甲武鉄道(注1)、新宿~立川間開通と同時に設けられた中野駅を中心に、東京の市街地外縁部の拠点の一つとして成長を遂げました。明治37(1904)年には中野~飯田町間の電化により、蒸気機関車列車が電車に置き換えられ、大幅な運転回数の増加が図られたのです。
中野以西の電化は15年後の大正8(1919)年であることから、その期間が、東京都心から気軽に行けるまちとして、中野にさまざまな機能が集積した時代でもあったと言えるでしょう。
以下次回に続く・・・
注釈1、ウィキペディア甲武鉄道より一部引用
東京市内の御茶ノ水を起点に、飯田町、新宿 を経由、多摩郡を横断し八王子に至る鉄道(動力=蒸気のち一部区間は電気を併用、軌間=1067mm)を保有・運営した。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。