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中野ブロードウエイの歴史(序章)

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草創期を語る前にブロードウエイの施主である宮田慶三郎氏の経歴を紹介することにしましょう。1906年1月7日北海道北見地方生まれ、大阪歯科大学を経て東京大塚駅北口に歯科医院を開業、同時に「宮田金属研究所」を開設、ここでミヤタシルバーロイという義歯用超硬質銀合金を開発します。この宮田歯科は超硬質義歯合金のおかげで大繁盛をしたようです。しかしこれだけでは納まらないのが宮田慶三郎氏の由縁です。昭和14年(1939年)日米開戦直前、33歳の時「不二越鋼材工業株式会社」富山県研究員として電池探知機や航空機温度測定機軍需用物資の開発に従事、そして東京工場長拝命、戦後この会社を買収しますが、隠退蔵物資の摘発を受けてGNQの軍事裁判にかけられるも釈放される異色の経歴も持ち主です。更に、昭和33年(1958年)日本大学歯学部理化学研究室で脳神経作用の研究をはじめ、大脳生理学のシンポジウムで渡米する機会を得た時に宮田氏が、アメリカのマンションを視察、高級ホテルのようなアパート「アパーテル」所謂コーポラティブハウス(居住•商業複合施設)の開発手法を知ることで翌昭和34年(1959年)『東京コープ販売』(不動産会社)を設立するに至ります。

この『東京コープ販売』が後の中野ブロードウエイに繋がります。他方、当時中野の地元商店街を中心に設立した「中野北口開発会社」が現在のブロードウエイ用地の買収に失敗、暗礁に乗り上げ頓挫している最中でした。こうした中、昭和39年(1964年)東京五輪の年にこの事業を引き継ぐことになります。丁度当時区分所有法制定、同時にオリンピックを背景にした法改正により高さ制限(31m)から容積率規制(都心適用)へと建築基準法の改正がありました。都心適用の間隙を縫うように容積率737%を確保した現在の傑作竣工に至ります。付け加えておくならば宮田慶三郎氏、現在の明海大学歯学部を立ち上げた著名な歯学界の雄なんです。歯科医が超硬質合金開発、そして医師免許獲得、渡米時の視察から帰国後不動産会社を立ち上げ、数々のマンションを中心にしたまちづくりを手がけ、大学歯学部を創設するといった異彩を放つ宮田慶三郎氏の傑作の一つが中野ブロードウエイ。まさに半世紀前の歯科医の物語(足跡)そのものなんです。

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コメント

  1. 山室 賢二 より:

    みのるさん 来年も身体に注意して 中野区の現況を発信してください。

    今回のブロードウエーの記事は、多くの方々に街のありようを示されたのではないでしょうか?

    中野の玄関である、活動が停滞気味の中野サンモールについても、激励と叱咤の特集を、切に希望します。

    1. 市川 みのる より:

      昨年、大晦日のコメントありがとうございました。活動が停滞気味?のサンモールの記事も次に取り上げたいと思ってます。その時は山室さんのアドバイスお願いします。コメントに感謝します。

    2. 市川 みのる より:

      ありがとうございます。健康管理を万全に与えられた仕事を全うします。ご指導のほどよろしくお願いいたします。

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