中野区囲町は現在の中野区中野4丁目一帯の旧町名です。この囲町の長老、笠井平治さんが昨夜亡くなられました。95歳の天寿を全うされた人生。慎んでご冥福をお祈りする次第です。笠井さんからは中野駅周辺、特に囲町周辺の昔話をよく聞かされました。今回は笠井さんを偲んで、良質な井戸水の話と優れた軍用鳩の話を紹介しましょう。まず、井戸水の話です。徳川五代将軍綱吉が発令した生類憐れみの令により、江戸市中の野犬が収容され、当時江戸郊外の農村であった中野に30万坪の広大な敷地を確保し、7万頭とも8万頭とも伝えらている犬を収容する犬小屋を建設しました。その場所が囲町一帯辺りから杉並区天沼一帯辺りにかけての広大な敷地であったようです。
さて、犬を飼育するのにどうしても必要不可欠なのが水と食物。それらが供給が出来るには農作物が豊富に収穫供給出来る事と、良質な湧き水の出る井戸水が必要不可欠だったのです。今でも中野駅周辺から新井薬師一帯にかけて良質な井戸水が出るのは知る人ぞ知る話です。さて、良質な井戸水を当時の幕府が江戸郊外の候補地を調査、太鼓判をいただいたのが当時未だのどかな農村であった中野の地であったのです。
ところで、笠井さんのご自宅にある井戸は綱吉将軍当時の井戸の名残という話。これ笠井さんがいつも自慢しながら話をしてくださったほんとの話です。以前、NHKのプラタモリという番組が笠井さんのお宅にタモリさんを連れて取材に訪れ、後放送されたのは有名な話です。よろしければ一度笠井さんのお宅に足を運ばれその井戸をご覧になってみてはいかがですか?中野四季の森公園の西側に構える明治大学中野キャンパスの南側の道路を横断した場所が囲町。そこから一つ目の路地を左に曲がると永世屋という屋号の酒屋さんがあります。ここが笠井さんのお宅になります。亡くなった笠井さんの息子さん夫婦とお孫さんがこの店を切り盛りしていますが、中野区議会議員市川みのるのブログで知ったと伝えていただければ、お犬様の置物が祀ってある井戸を見せていただくことが出来ます。必見ですよ。
もうひとつ、江戸時代から明治維新を経て、犬小屋のあった一帯に陸軍省の施設が引っ越して来ます。明治20年当時の話です。この地に鉄道大隊、気球隊、電信隊が施設を構えます。後、鉄道大隊は習志野に、気球隊は飛行隊として所沢に移転しますが、電信隊だけは大東亜戦争集結までこの地で歴史を刻みます。またこの地に諜報機関員を要請する陸軍中野学校があったのも有名な話です。終戦後はこの地に警察大学校、警視庁警察学校が誕生します。
さて、電信隊は当時のトップ機関である陸軍省のICT技術の集積場所ですから誰でも入れる場所ではなくなります。周囲は土手と塀に囲まれ世間とはシャットアウトの状態です。ところが、電信隊の南側に当たる囲町の街区からは塀一つ向こうに施設がよく見えたようです。したがって電信隊が何かと身近な存在になります。鳩の話に入ります。伝書鳩は遠隔地の通信手段としてギリシャ•ローマ戦争の当時から活躍し、昭和50年代頃までわが国の大手新聞社でも使われていました。特に陸軍省電信隊で飼育されていた伝書鳩は軍用鳩中野種と呼ばれ、世界的にも優秀な鳩としてその名を馳せていました。鳩の帰巣本能はご存知の通り鳩舎を動かしては帰ってくる事が出来なくなります。ところが、自らの鳩舎を移動させてもそこへ戻る事が出来るよう中野電信隊用地で訓練されていたのが中野種なのです。戦地へ往けば、一個小隊なり中隊なりが移動する際に鳩も鳩舎も一緒に移動するのですが、通常の鳩ですとここで自分の鳩舎を見失い彷徨い役に立たなくなります。ところが、中野種においては移動しても戻って来られる訓練がされてますので戦地においても遠隔地への通信手段の一つとして十分に役立つわけです。
その中野種が飼育されていた鳩舎が笠井さんのお宅の北側にありました。当時陸軍省用地からしますと一番南側に当たります。その鳩舎の番人を務めていらした方が笠井さんの家作に住居を構えていらしたので鳩にまつわる話をよく伺ったそうです。そこから得た話が今回紹介した話です。中野種と称された優秀な軍用鳩が1000羽もいたそうですから嘸かし鳴き声だけでも賑やかだったことでしょう。訓練の時間になると一斉に鳩が飛び立ち中野の空に鳩が舞う姿。それは壮観だったと思います。嘗ての鳩舎の位置は中野セントラルパークサウスの辺りになります。今度四季の森公園に行かれた時に立ち止まって空を眺め鳩が舞う姿を重い浮かべて見てはいかがですか。
今回は笠井平治さんへのご供養になればと思い、笠井さんが私によく語り伝えて下さったお話を二つ紹介させていただきました。中野の歴史がまた一つ西方の浄土へと旅立たれました。さようなら。合掌。