中野のキーマン100人に会う

【中野のキーマン100人に会う:その2】長谷部智明(立ち飲み居酒屋パニパニ店主)[後編] 建て替え計画が持ち上がる中野サンプラザ。あの形は誰が作ったか?未来の中野駅周辺とは?

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[前編]から。

中野に根付いて活発に活動されている方々100人に直接お会いして、ご自身の中野での体験やこれからの中野への想いなどを伺おうというシリーズ。第2回にご登場願うは、中野駅北口の昭和新道商店街会長であり、立ち飲み居酒屋『パニパニ』オーナーである長谷部智明さん。今や中野の夏の風物詩になった中野チャンプルーフェスタ実行委員長としても大活躍中である。 

ざっくばらんな人柄と鋭い洞察力を併せ持つ論客に中野の歴史とこれからを聞いた。IMGP5602

市川 中野通りには桜並木がありますね。そこに面した土地には中野サンプラザもあり、魅力が溢れ、人も増えてきました。そこで、中野駅北口周辺のおすすめスポット、魅力的な場所といえば?

長谷部 それはもちろん、昭和新道商店街でしょう(笑)

”昭和と今が出会う街”というコンセプトで、もう10年も商店会長をやっています。この”味”が残せるのは、半分私道である昭和新道しかありません。この数年は本当に良い新陳代謝があって、僕がこういうだったらいいなと思っているようなお店が入ってきてくれているので、昭和新道はますます良くなっていきますよ。

市川 昭和の香りが懐かしくて、今もたくさんの人が集まるっていますよね。一方で、昭和新道商店街と中野ブロードウェイの間にあった四十五番街が無くなった例もあります。

長谷部 意図的に残そうという気持ちじゃないと、無くなってしまうんですよ。四十五番街は最初に再開発の話が出てから25年も経っています。四半世紀ですよ。この間の喪失は大きい。本当にあの四十五番街の開発は大罪だったと思います。

店をやっていた方がメリットがあるときちんと伝えられず、世の中の流れだから売った方が良いという安易な話に乗ってしまった人がいて、こうなったのだろうと思います。自分の商売にプライドをもっていたら、退くにしても、その意味がなければ、退かないだろうと。

実は、四十五番街からの流れで、昭和新道商店街にも再開発の話が実際にありますが、僕はここで商売を続けなければダメだと思っています。中野に絶対に残さなきゃいけない”味”です。商店街の町並みっていうのは文化なのだから、特定企業の利益の為に開発されていいはずが無いと、僕は思いますね。

自ら会長を務める昭和新道商店街のような昭和の香りのする町並み保存にも力を注ぐのが長谷部さん。古くからある中野駅北口北東部(中野5丁目界隈)の雑然とした飲食店街が中野らしさを表現すると説く。「意図的に残そうという気持ちがなければ残らないのが町並みである」という言葉は重い。 道路にしても、町並みにしても、人の往来や憩いに”味”を感じることの出来る文化を街に残し、継承進化させたいとの心意気を感じる。そして、話は中野ブロードウェイに及ぶ。IMGP5592

市川 中野ブロードウェイは独自の文化を作り出しましたよね。来年で創業50年になりますが、平日で2万5千人、祝祭日は5万人が来館します。50年続けてこれだけ往来が激しい商業ビルというのは他に類を見ないそうです。長谷部さんが仰ったように、皆がここで頑張ろうと踏ん張って、50年間独自の文化を進化させてきたからです。

長谷部 中野ブロードウェイも一時期は危ない時期がありました。父親が最初から中野ブロードウェイの2階に飲食店をだしていまして、当初は2階には4~50軒の飲食店がありました。それが、どんどん閉まっていって、どの店もアルバイトを止めさせて、店の親父が1人で煙草を吸っているような状況でした。

もともと中野ブロードウェイの2階は空調環境が良くなかった。後付で作ったものだから。商業エリアは元は3層構造の計画だったものを、建築費が多くかかったものだから、店子を増やさなきゃいけないということになって、後から2階を作ったのです。だから、中野ブロードウェイのエスカレーターは1階から乗ると3階に行っちゃうんです。

市川 へええええ!それは知らなかった!確かに、2階の天井はかなり低いですよね。

長谷部 だから、元々飲食店に向いている訳がなかった。だけど、もう飲食店をバンバン誘致しちゃった。ところが、昭和50年位から状況が変わりました。もし、まんだらけが入って、今の方向性に行かなかったら、きっとダメだったと思います。だって、あの建物にその後から、飲食店はもう入れなかっただろうから。中野ブロードウェイはまんだらけに救われたんですよ。

ご両親が中野ブロードウェイで経営されていた中華料理店「明白(みんぱい)」は最近その長い歴史に幕をおろした。中野ブロードウエイの謎の1つ”2階を飛ばして3階に上るエスカレーター”は私は長年不思議さを感じていたのだが、長谷部さんの話でその謎が解けた。IMGP6047

市川 昭和新道商店街、中野ブロードウェイ、そして中野の象徴といえば何と言っても中野サンプラザですよね。

長谷部 個人的には、中野の皆さんこそ、もっとサンプラザを使って欲しい。中野サンプラザの最上階のレストランからの景色は最高ですよ。中野ブロードウェイの屋上庭園も見渡せます。「あそこ何なの?」って訊ねられて、「ああ、あれはブロードウェイの屋上だよ」って答える。そしたら皆「中野ブロードウェイってそんな風になっているの?!って言いますよ(笑)

市川 意外と近くにいても気づかないものですよね。中野サンプラザは10年後に建て直しするという想定スケジュールが発表されました。将来の中野の姿を決める開発だと思いますが、こうなって欲しいという希望はございますか?

長谷部 これは普通に考えて、皆さんに伺いたいんですけれども、東京タワーが老朽化して建て替えるとしたら、違う形にしますか?

市川 なるほど。

長谷部 富士山の形が変わったら富士山だと思えますか?僕はそれに近い事だと思いますよ。中野サンプラザはこの形でなければ中野サンプラザである意味が無い。サンプラザを斜めに切ったのは誰だかご存知ですか?

市川 存じ上げません。教えて戴けますか?

長谷部 田中角栄さんですよ。建設にあたって、日照権の問題が持ち上がった時に「じゃあ、斜めに切りゃいいじゃないか」って言った鶴の一声です。

市川 それも田中角栄さん?!建設誘致の話は知っていましたけれど、それは初耳でした。

私が聞いていたのは、今は中野サンプラザがある場所に、大手百貨店を誘致する計画が持ち上がった時に地元が大反対して、当時の中野区長が田中角栄邸を訪ねて「地元の商店街の反映のためにはこれが出来ちゃ困る。できれば子どもたちや若者たちが集まる施設を作ってはダメだろうか」と相談したという話です。

その場で労働相に電話をしてくれて「全国勤労青少年会館の構想はどうなっているのか?」と。「まだ決まっていません」ということだから、「じゃあ中野に決めたから」って返事をして、それはもうものの3分で決まったっていうエピソードがありますよね。

長谷部 その後日談もあるっていうのを聞いたのは、割と最近です。それを実際に作った人がまた天才でしたよね。世界に類のない美しいフォルムじゃないですか。中野チャンプルーフェスタでは、毎年必ず中野サンプラザをバックに写真を撮っています。東京タワーにも匹敵するものだと思っています。もしこの形を変えてしまうとしたら、ナンセンスです。

市川 以前にある人が東京スカイツリーの上に登って、西側を眺めたらあそこが中野だってすぐに分かるのは、中野サンプラザがあるからだっておっしゃっていました。それだけ象徴的な形ですよね。さて、ではその中にはどんな機能の施設が入ればいいと思いますか?

長谷部 形は残したままで、中身には日本の一番クリエイティブな人達を集めて、ものすごい機能性と遊び心を持って、創造性を掻き立てる施設にして欲しいですね。先日、久しぶりに銀座の歌舞伎座に行きましたら、ビルは新しくなっているけれど、姿はそのままじゃないですか。ああ、中野サンプラザもこういうことをすれば良いんだって思いましたよ。

歴史を踏まえながら将来の絵を描く長谷部さんに、中野サンプラザについて伺うと、独特の三角形だけは残すことを切望された。その形状だけは残した中に、密度の濃い機能、わが国最高のものをと仰る。設計に関わる方々は肝に銘じておいていただきたい。 

また、中野サンプラザと田中角栄氏との深い関わりは、以前にこのブログでも紹介したことがあったが、その私自身も知らなかった「あの三角形の形状がなぜ生まれたか?」にも同氏が関わっていたことは、中野ブロードウェイのエスカレーターの秘密に続く、本日2つ目の再発見だった。IMGP5504

市川 2020年には東京オリンピックが開催されます。オリンピックを見据えて、5年先を見据えて、今どんなことをこの街は、地域は、やったらいいと思いますか?

長谷部 僕は一昨年から高円寺の阿波踊り協会の方とご一緒させていただいますが、高円寺は去年の時点で東京オリンピックに8000人の連で、東京の代表としてパレードすると言っています。では、中野には何があるかといったら、やはり10年間この街で育ててきたエイサーがあります。

阿波踊りは明らかに徳島のものだけれども、高円寺の街でも50年間育ってきました。同じく、中野のエイサーも、沖縄の方から「中野は認める」と仰っていただいています。既に中野の文化になっていて、東京オリンピックに中野が関わる十分な要素ですから、後は区がどれだけバックアップしてくれるかだと思います。

市川 では、その流れで、中野区や中野区議会に対して、オリンピックとは切り離した内容でも、期待したいことはありますか?

長谷部 繰り返しですが、一番は住宅事情のことです。それから、中野はまだ文化と言えるものが少ない街ですが、例えばエイサーやスケートボードといった代表的なものも出来てきています。地元の人が知らないだけで、中野のスケートボードというのは、世界が認めたスケートボードですよ。ニューヨークでもロンドンでもスケボーって言ったらNAKANOだろって言われるんです。エイサーだって沖縄で「東京にもエイサーがある」って言えば「ああ、中野だよね」って言われます。この2つに関してはもっと区にも後押しして欲しいと思いますね。

文化振興といえば、今はイベント流行りですけれど、何でもやればいいってもんじゃないと思いますよ。

市川 イベントは一過性になりがちで、その時は良いのだけれど、なかなか定着しづらいですよね。

長谷部 中野の人じゃなければやり逃げができるんですよ。僕はずっと中野に住んでいるから、やった以上はやり逃げはしないぞって思ってやっています。イベントが終わると、やって良かったこと、悪かったことを検証して、続けていく為には何が必要なのかを考えます。

そのイベントに出演している人、踊っている人が、この街のお陰で踊らせてもらえているという気持ちを持って、街の中に溶け込んでいくことが重要だと思います。1年に1回だけのお祭はなくて、この中野の街の中で、自分たちの居場所を作っていくっていうことが一番大事なことなんじゃないでしょうか。今では街のゴミ拾いをしたり、防犯パトロールに参加したり、小学校にもエイサーの指導に行ったり、そういうことをやってきて、それは間違っていなかったと僕は思っています。

中野チャンプルーフェスタを通じて中野に根付いたエイサー、世界にその名を轟かせているスケートボードなど、近年の中野には新しい若者文IMGP6252化が確かな足音を残し根付きつつある。それらは、長谷部さんのような人達の努力によって、中野駅周辺の方々や、小学校の児童の参加を得て更に子どもの世代へと確実に引き継がれる。

中野生まれ、中野育ちで、熱く活動を続けている長谷部智明さんからは、含蓄のあるお言葉の数々をいただくことができました。最後は、事務所の窓から、中野サンプラザを背景に撮影していただきました。

貴重なお話をいただき、たいへんありがとうございました。

※次回登場は、テレビで話題の中野沼袋にある激安卸問屋【土橋】社長の土橋達也さんです。お楽しみに。

 

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