半世紀前の今日10月10日(土)午後2時ジャスト。国民の誰もがテレビの前に釘付けになった瞬間です。そうです。アジアで初めて開催されるオリンピックパラリンピック東京大会開会式のファンファーレが鳴り響き、参加96カ国の選手団の入場行進が始まった時刻だったのです。当時、私は小学4年でしたが鮮明にその記憶が蘇ってくきます。開会式での選手団の一糸乱れない凛とした行進の姿、昭和天皇陛下の開会宣言、当時のIOCブランデーシ”会長の開会挨拶、五輪旗の入場掲揚、最終聖火ランナーによる聖火点火、数千羽の鳩が秋空の飛び立つ姿、ブルーインパルス飛行隊が神宮の秋空に描いた五輪の飛行機雲、小野喬日本選手団主将の選手宣誓等々、特に今日は蘇ってきます。
ところで首都大学東京 渡邉英徳研究室×朝日新聞社との共同研究として取り組んできた「東京五輪アーカイブ 1964-2020」が10月1日に公開されました。捏造記事で世間を騒がせた朝日新聞もこんなにいいことやっているんだ。と思いながらもここに紹介しておきます。さて、1964東京五輪競技に目を移しますと、日本選手団メダル第一号重量挙げ一ノ関史郎選手の銅メダルは印象的でした。しかし翌日の同じく重量挙げ三宅義信選手の金メダルは更に衝撃的で、ここから日本選手団の金メダル16個獲得に弾みがついたような気がします。記憶に間違いがなければ、レスリング、体操、柔道、ボクシング、女子バレーボールでそれぞれ金メダル獲得だったはずです。
特に、女子バレーボールの金メダル獲得は大会最終日前日の出来事で、テレビの視聴率も85%を記録、当時常に視聴率最高記録の大晦日NHK紅白歌合戦の視聴率を上回ったほどでした。東洋の魔女と称された日紡貝塚女子バレーボールチームが単独チームで日本代表を務め、確か東京五輪までの間、世界国内各種大会を通して150何連勝だったかを記録。この最強無敵のチームを創りあげたのが大松博文監督です。その厳しい指導のあまりに『鬼の大松』と称されましたが、東京五輪優勝の瞬間、その『鬼の目にも涙』が浮かんだ姿は今でも目に焼き付いて離れません。大松監督は後に自民党参議院議員に全国区から出馬当選を果たします。タレント議員誕生の走りです。
思い起こせば思い起こすほどに蘇ってくる1964(昭和39年)東京五輪。今日このブログも内容のほとんどを私自身の記憶に頼って書いてます。その遠因として、当時小学4年の自分自身が通学していた中野区立桃丘小学校の担任、亡山口二三先生のご指導ご教示が大きく影響しています。なぜかと申せば、山口先生が東京五輪の聖火がギリシャオリンピアで採火され、世界各国を経由する聖火リレーが始まった時から新聞の切り抜きを画用紙に貼付けて、学級新聞を当番制にして作成するよう指示されたことが大きく働いていることを最後に付け加えさせていただきます。出会う恩師の大切さを1964オリンピックパラリンピック東京大会を思い出すにつけ、つくづく思う昨今です。
参考、朝日新聞、首都大学東京東京五輪アーカイブhttp://www.asahi.com/special/tokyo1964/