中野のキーマン100人に会う

大型ショッピングモール・コンビニエンスストアに負けない”生き残る”商店街の秘訣とは?【中野のキーマン100人に会う:その6】 折原烈男(中野区商店街連合会名誉会長)

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「中野の商店街にこの人あり!」と言っても過言ではない重要人物、それが折原さんである。曰く「商店は老舗がそのまま継続していければ一番良いが、経営は時代の変化とともに大きく変わる。特に大店法が立法制定されて以来、その有り様は大きく変化した」。現在のように、スーパーやコンビニが主流を占める中で、当然の如く商店街の姿も変化を見せる。今後の商店の行き着く先や商店街の将来像はどのようなものになるのか。IMGP8210

市川 折原会長には親父の世代からお世話になっています。私にとっては父親のような存在で、思い起こすと色んな事が思い浮かんでまいります。まずは、折原会長が中野に折原コーヒーのお店を構えた若い頃の、中野や新井薬師の周辺の思い出から伺いたいと思います。

折原 私は昭和31年に新井に来ました。そこでゼロから商売を始めて無我夢中でしたね。特に印象に残っているエピソードといえば、中野の駅の改札の駅員さんでしょうか。当時は鋏で切符を切っていたのですが、駅員さんが「おはようございます。いってらっしゃい!」と元気に声をかけて下さった。中野の歴史を語る時に、そう言った心の篭った応対が思い出されますね。

市川 切符に鋏を入れながら、必ず一言入れてくれる駅員さんは中野の名物でしたね。私も中学生くらいの記憶がなんとなくあります。今は駅員さんもいなくてカードをかざせば改札を通れてしまいます。便利である反面、段々と人のふれあいの場面が薄れつつあるのとも思います。

昭和の時代を振り返って、中野駅の改札に居た改札係の駅員さんの話が出て来た。改札口は一人一人の切符にハサミを入れていた時代。朝の通勤通学時に一人一人の切符にハサミを入れながらも「おはようございます」「行ってらっしゃい」と一言声をかけながら朝の通勤通学客を送り出す駅員さんが居た。私も記憶がある。その駅員さんの姿に商売の原点が隠されていると折原さんは懐かしむ。IMGP8113

市川 中野駅を中心として、この一帯(サンモール商店街、中野ブロードウェイ、薬師あいロード商店街、柳通り、中野サンプラザ・区役所エリア等)は最近の改良工事で随分と様変わりしました。中でも、変化を感じることがあればお聞きかせください。

折原 中野駅北口のサンモール商店街は、最初は中野北口美観商店街といいました。昭和40年代に中野ブロードウェイができましたが、その頃の美観商店街の皆さんは必ずしも快しとはしませんでした。

ところが、いよいよオープンしたら駅から中野ブロードウェイに来るお客さんは必ず商店街を通るわけですから、にわかに賑やかさが増し、そうこうしている内に中野ブロードウェイにある有名な会社が入居しました。そうするとそのお店をめがけてたくさんのお客さんが来るわけです。商店街も発展して、名前もサンモール商店街に変わり、中野ブロードウェイと共に大変栄えました。その辺りで、中野の北口商店街の様子が大きく変わったのは無いでしょうか。

市川 確かに、サンモール商店街の賑わいは中野ブロードウェイの成功に依るところは大きいでしょう。同時に、中野ブロードウェイの入口で左右に分かれた白線通りや十字路商店街、仲見世通りは、中野ブロードウェイができたおかげでだんだん人通りが少なくなったと、一時期はそんなことが嘆かれたこともありましたよね。

折原 それはあのエリアだけのことではなくて、その話が出た頃までは、中野には警察大学校がありました。それが調布に移転しました。それも人通りが少なくなった大きな原因の1つです。

市川 大きな施設が移転した為に、人の流れが変わったと。

折原 警察学校の存在は大きかったですね。その後、昭和46年には中野サンプラザができました。立地条件が良いことから、数多くのコンサートが開かれましたね。これも当初から地元は歓迎ではありませんでした。最初の計画では四角い建物だったはずが、日照権の問題でビルを斜めに切ることになりました。それが功を奏して”三角ビル”として全国での知名度も上がり、中野の名前を知らしめました。

当初は食わず嫌いという感じで、皆さんに抵抗があったものの、完成してしまえば共存共栄できました。今、比較的に何でも受け入れる中野の気質というのは、そんな経験からきているのかもしれないですね。

市川 これは中野に限らず、新しいものができる時には抵抗があるものですが、その後で本当にそれが街の為になったのか、ならなかったのかは、ある程度経ってみないと分からないことが多々あります。大反対だったけれど、後日それが大変良い結果を生むこともあるわけですね。

折原 そうです。そういうことです(笑)

昭和30年代後半から40年にかけて中野ブロードウェイ建設の計画が持ち上がった。商店街からは当然の如く反対の声があがる。しかし、現状はどうだろう。その中野ブロードウェイのおかげで中野の街に訪れる人の数は増加し、新たな文化をも誕生させた。計画作成当時に誰がこのような姿を想像したであろうか。

中野サンプラザも同様で当初は誰も歓迎はしていなかったと折原さんは当時を振り返る。しかしながら、そのホールで行なわれるイベントは中野の街を全国的に有名にした。中野の人の気質はこういった中から醸成された。要するに、新しいものを受け入れ、寛容な態度でお付き合いをする気質が今に引き継がれている。IMGP8552

市川 そんな経験もあって、何にでも寛容な基質が生まれた中野の街ですが、同時に、やはりこの街にもまだ弱点があると思います。ここが中野の”脛”だよと感じ取れることは何でしょう?

折原 立地条件からくる特性ですが、例えば新宿や渋谷、池袋のようなターミナル駅の賑わいというのは、色々な地域からお客さんが電車でやってくることで生まれるわけです。そういった街と比較すると、中野は中央線と東西線だけで、しかも新宿という大きな街と直接繋がっていることから、どうしても買物や仕事は都心に行って、中野は居住区が中心になります。

居住区といっても、親から代々住んでいるというよりは、若い人たちが都心に行く為の住処として選ぶことが多く、2.3年で転居していきます。若い人は中野の街で楽しんでくれるし、住んで良かった街と評してくれるけど、ほんの短期間で住民が入れ替わってしまいます。

交通の便から考えると、中野は南北に長い区でありますが、鉄道は東西の動きがあるだけ。道路整備においても、南北の主要な導線は中野通だけです。中野の駅周辺に集まる人が増えてくればくるほど、中野通りのバスやタクシーが多くなって、ますます道路が混雑します。そうすると、やはり鉄道で都心に向かうしか無くなりますね。

市川 中野は確かに南北交通が弱い街だと思います。現在の交通網では、今後の再開発で中野駅の周辺が活性化しても、集まった人がその周辺だけで留まってしまって散らばっていかない。これまでも、細い道でも走れるシャトルバスという解決策があります。渋谷にはハチ公バス、杉並にはすぎまるくん、武蔵野にはムーバスがある。そういったバス交通網が縦横無尽に走るんです。特に、武蔵野市はご年配の方が増えているので、僅か50メートルくらいの間隔でバス停があります。ムーバスは誰が乗っても100円です。そうすると、足を延ばしてくださる方が増えることになると思います。

若い人が住まう街、中野は取り敢えず住まう街でいいのだろうか?否、永住する街にならなければならないと折原さんは言う。それには中野駅周辺の街づくりにとどまらず、中野に潜在的に潜む南北交通問題の解決に目を向けていただきたいと力説する。山手通りの拡幅事業の実現により、東中野方面の南北の風通しは抜群に良くなった。IMGP8469

市川 折原さんは、長く中野の商店街連合会の会長をお勤めになりました。そのご経験から、今後の中野の商店街のあり方、どう進んでいくべきかといったことをお聞かせ願えないでしょうか?

折原 大型の商業施設が数多くある今、魅力的な商店づくりは難しい課題です。

昭和38年に神戸に主婦の店というダイエーの前身ができまして、大成功しました。週刊誌が「主婦の店の周辺の商店が客を取られて消えてしまった」というのを取り上げたほどです。その後、主婦の店がダイエーになり、全国を制覇しました。そのダイエーも去年には行き詰ってしまったわけですが、スーパーができたことによって、商店は大変大きな影響を受けたのは確かです。

一箇所で何でも揃って安く買える、駐車場もある施設ができれば、消費者はそこにどうしても行きます。それだけ街の商店街は売上が下がります。だから、大型店で扱っているような商品ばかり扱う店は早く方向転換した方がいいと、口癖のよう言っております。商店はスーパーで売っていない商品を扱えば存続できます。

商店が一生懸命努力していても、どうしてもスーパーやコンビニにお客さんの足は向けてしまいます。商店がどんなに努力しても、継続した経営ができなくなってしまう。だから後継者がいない。そういう宿命にあるからこそ、スーパーで売れないもの、例えば美容室などですが、そういったものを扱わねばならない。例えば、美容室は現在薬師あいロード商店街でも繁盛しておりまして、実に17軒もあります。全国的に見ても美容師は足らないと言われていいます。

そんな風に、スーパーやコンビニで扱っていない商品で頑張っているのはどこかと申しますと、私はやはり中野ブロードウェイだと思います。中野ブロードウェイは地方との里町連携など他との差別化に非常に熱心です。一軒だけではできないけれど、中野ブロードウェイ商店街という規模の商売あればできますね。

市川 一軒ではできないイベントを商店街として催したり、地方の都市と交流を図ったりする。中野ブロードウェイという商店街単位で皆さんがフットワーク良く動いてらっしゃいます。そういった交流が今はより活発になっていると感じます。マスコミも巧みに活用している点も、素晴らしいと思いますね。

昭和38年。神戸の街に出現した「主婦の店」(のちのスーパーダイエー)の誕生により、生鮮三品の個人商店は悉く打撃を喰らうことになった。それにより商店の後継者が現れることなく商店は次々とその姿を消し始める。消費者の動向もスーパーで扱っていない商品を個人商店で求めるといった傾向が生まれた。現在のように、大型ショッピングモールやコンビニが主流を占め商店街の姿も当然の如く変化を見せるのである。IMGP8163

市川 話は変わりますが、5年後にはオリンピックが東京にやってきます。私たちの世代は1964年の東京オリンピックが思い出されます。あの頃の東京は今日より明日、明日より明後日と、必ず生活が良くなっていきました。今はどういう時代かというと、右肩上がりどころか停滞をしている時代だと思います。若者は、できるだけお金をかけずに飲み食いをする。時代の推移で若者の気質も変わってきたと思います。その中にあって、このオリンピックに期待するものがあると思うんですね。

子供たちもこのオリンピックに向けて、例えばオリンピックを身近に見る事によって感動を覚えるとか、例えば、こんなに日本の経済に効果があって景気が良くなるとか、肌身をもって感じる時が5年後に来ると思うんです。ここ中野では、オリンピックというものがどういう影響をもたらしそうでしょうか。

折原 前回の東京オリンピックで二つ印象に残っているのは、まず海外から東京に来たお客さんが「昭和通りがあっちにもこっちにもある」と迷わないように、「昭和通り」を1つにしたという話です。銀座の方の昭和通りを残しました。中野を通る「早稲田通り」も当時は「昭和通り」だったんですよね。前の東京オリンピックで名前に変わりました。これは大きな収穫だったと思います。

もう1つは地番の整備です。よく国会などで「そんなの1丁目1番の話だな」なんて言い回しがされますが、「1丁目1番」といったら、その地区の中で皇居に1番近い場所です。そこから「の」の字を書くように地番が並ぶように整備されました。1丁目1番2番3番といって、その次に2丁目ときます。「の」の字にそっていくと全部当てはまるようになりました。

市川 これは昭和38年の話ですね。

折原 もっと分かりやすい例は新幹線ですが、身近なもので印象に残っているのは「早稲田通り」ができたことと、地番の整備です。これはオリンピックが遺した一つのレガシー、遺産ですね。今度のオリンピックでもこういうことが必ずあると思います。それが街の中に残るのか、子供たちの心の中に残るのか、何か残ると思うんですよね。それが何かはまた開いてのお楽しみということですね(笑)。

これらは、外国のお客さん、観光客の皆さんを日本にお招きするに当って、不便のないよう、失礼のないよう、ということを考えて知恵を絞った結果な訳です。確かあの時に街中のゴミ箱もなくなりましたよね。そいう形で、街がずいぶんと変わり、我々にとっても便利になりました。

ですから、この次のオリンピックでも、体育館をどうするかみたいな話は専門家が考えればいいとして、オリンピック開催に付随してその後も残る「これが素晴らしい遺産だ!」というものが欲しいですよね。

最後に「早稲田通り」命名に以前の東京オリンピックが関係した秘話を披露くださった。そういえば私が子どもの時分、東京オリンピックを控え、早稲田通りの名称板が通り沿いの交差点毎に立てられたことを思い起こす。オリンピック観覧に訪れる外国人の利便性の向上対策であったのであろう。実は、青梅街道も同様であった。今回の東京オリンピックでもそうした「遺産」が生まれることに期待したい。IMGP8188

市川 最後に、今後中野区や区議会に対して、要望や期待することがございましたら、おっしゃっていただいて締めの言葉にしていただきたいと思います。

折原 役所は縦割りで、色んな方針があって、それで決まったことが下がってくる区議会にもそれぞれの議案があったりするわけですけれど、特に区議会の議員の先生は選挙の時だけじゃなくて、できるだけ日常に何人か、5人でも10人でも良いから、集まって各地の苦情なり希望なり、名案なりを聴く為のやり取りが、あって欲しいですね。その積み重ねが大事だと思うんです。

そういった集まれる会を開いて、集まった人にお土産を出すなんて全く要らないので、500円くらいのお茶菓子代としての会費で良いので、集まった人は全く貸し借りなしで、言いたい放題のことを言う。そういったことを繰り返していく間に、その会にも知恵が出てくると思うんです。IMGP8859

例えば、市川さんが選挙の時に仕立てていただいた世話人会がありました。あれをもう1回、この夏の納涼会で復活をさせてみたらどうでしょう。或いは、更にもう一歩踏み込んで、集まってもらうのではなくて、こちらから出張するから、皆さんで話をしましょうよ!という形の日常活動ですよね。期待していますよ。

市川 それをすることで、地域の本当の考えていることや希望しているものが受け止められと思うんです。人との触れ合いとか、出会いで、色んな話ってできていくんですよね。それを役所の人間よりも、議会の人間がメッセンジャーになって、しっかり声を届ける役割を果たしていくってことですね。肝に銘じます。


【過去のシリーズ】
その5:飯塚晃(JR中野駅第52代駅長)[前編]
その5:飯塚晃(JR中野駅第52代駅長)[前編]
その4:藤原秋一(エフ・スタッフルーム代表取締役)[前編]
その4:藤原秋一(エフ・スタッフルーム代表取締役)[前編]
その3:土橋達也(土橋商店)[後編]
その3:土橋達也(土橋商店)[前編]
その2:長谷部智明(立ち飲み居酒屋パニパニ店主)[後編]
その2:長谷部智明(立ち飲み居酒屋パニパニ店主)[前編]
その1:大月浩司郎(フジヤカメラグループ会長)[後編]
その1:大月浩司郎(フジヤカメラグループ会長)[前編]

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